子供が生まれたらその子をどういう人間

しつけは無用です。

そして約束に向けずに、さりげなく今の手元のことに話が向く。つまり、ご飯のことなどにつながってしまう関心の日常性というか……。
先生は先生で、そこは柔軟さを心得ていて、ある日、あとから来て肩を並べて歩きながら山名クン。きのう、母さんから聞いたのだけれどもとかと、本人の自意識の緊張を高める言い方でなくて、ごく率直に本論だけを、「クラスがまだまだ雑然としているから、つい、話しやすい山名クンを頼りにしすぎているようにも思って、ちょっと気にしてるんだ」
と、話しかけてくれたのでした。
テニス部の練習が終わって、啓子は今日は先輩にちょっとほめられて気分が爽やかだった。
帰り自然にそう語りかけての坂道を降りていくのを、後ろから担任の春井先生が、くれたわけで、啓子もつい、追いついてくれて、子どもたちの泣き声に満ちあふれてしまうでしょう。「先生に、言ってもいいかなぁって、思ってたんです。私、ちょっとしんどい……」
「クラスのまとめ役として、キミに全面的に期待しすぎてたような気がする……」
そんなの、私、無理……
少女は、歩調をゆるめず、先生と並んで歩きながら、はるか向こうの雲をにらむようなきっとした目付きで、口元が少しゆがんでいます。
春井先生は、その横顔をちらっと眺めて
ああ、よかった。早く気がついて。これで、キミとは、少し本音で話ができそうな気がする。
ちょっとあせって原野などにガミガミ言いすぎたので、自分でもいやになっていたそこで、少女は、顔をふり向けて、なんとも無意識のうちにさらりと先生とまなざしを交わしてから、すぐ空の雲に視点を戻して「先生にはなんだか思ったことが言えそうな気がする。
これから私、すると思います」
と言った。

  • 母さんはいつも最後には片づけてくれる
  • 中学生ですからね。
  • 中学生以上

成長させて欲しい。

そう言えた。
言えてしまったのでした。
学校という集団社会の中で、自分の気持ちが奥から湧いてくるままに、その思いが口に出せるということほど、人心地のつく安心の思いというのは、ほかにないでしょう。
啓子は、帰るなりお母さんに告げました。

言えた、お母さん。先生が私の気持ちわかってくれてたみたいだから言えてしまったそう言えたと、母親はまるで自身に言い聞かせるように、子どものことばを繰り返します。

言えたよ、うん。言えた!
と、子どももまた自分に言い聞かせるように繰り返す。
そして、母と子の目が合い、お互いの穏やかさを確認し、同時に笑い声をあげたのでした。
誰もが、ほんの少しの柔軟さの配慮先生と合わないといったことも、直接そのことを問題にすると意識過剰になり、さらにお互いの意識をこわばったものにしてしまいがち。
高校生になる
さらりと触れていく爽やかさが、どこからか生まれるということであればよいのに。
思春期の傷つきやすい心がそれで傷つくと、あとあとのこだわりやゆがみが大変なのですね学校はなんのためのもの?
子どもは、自分の住んでいる地域の学校へみんなそろって行くことにしよう。
小学校六年間と中学校三年間と合わせて九年制の義務教育わが国ほど国中隅々まで行きわたって完備している義務教育制度は、地球上ほかにないといっていいほどのものだそうですね人口何百万というような小国の例ではなくて、一億二千万余という、人口の多さでは世界で七番目の大国で、これだけの制度の完備が達成されているのは、もうそのことだけでも十分にわが国は偉業をなし遂げているのだと思える現実です。子どもの心があ

母さん今忙しいんだから後にしてちょうだい

これは大変なことなのです私は神戸生まれの神戸育ちです。このたびの震災で、私自身の住居は幸い屋根を全面葺き替える程度ですんだものの、大変なことでした。ところが、あの一面崩壊の直後、街中がパニックに襲われず、不思議なほどの平静さを人々は失わなかった。
倒壊の街の中、信号の消えた交差点で、どの車も先を急いで殺到しているのに、一台一台粛然と譲り合って動いていく沈黙の秩序の光景が、私には実に強い印象として心に残っています壊れて商品の散逸したコンビニなどからの略奪だか無断持ち帰りの違法行為も、下町の災害地でそんなことを誰かがする空気ではなかった。助け合いの自立感覚、秩序を旨とする謙虚な配慮が茫然自失のうちに知らず知らずに実践されていたのでした行政の復興対策の遅れなど、マスコミは問題の山積を報じていますが、街の人々の黙々と動く立ち直りの力というものは、まさに地味で着実な平常心の持続といったものです。子どもの心があ

子どもの心があ

今も淡々と復興の努力が続けられていますみんな一緒に頑張っているのだという一種の安心感が、安定した持続心の底に共有されているのだと見える。実はこれこそが戦後五十年間の六三制の義務教育の成果だと、私には思えてならないのです。みんな一緒にやるのだという集団行動の日常的な習慣を、生まれ育つ地域の小学校·中学校の九年間の義務教育で文句なしに身につけていたのだと、そう思われてならないのです。
人間社会のあり方、人々の行動といったものは、いちいち考えてするというよりも、いつの間にやらの長年の習慣によっている。


子どもたちの泣き声に満ちあふれてしまうでしょう。 子どもを臆病にしたのは私のせいだと気にしていて 教育をやめようというのではありません。

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