母さんが長い時間

子どもの行動をいつも監視しているような立場に立

知らず知らずの基本的なパターンというものができてしまっていて、気がついたら、そうやってしまっている、そうなっているということの、まあなんと多いことカそういう意味で、入学式、始業式、終業式、運動会、文化祭、キャンプ合宿、修学旅行、そして毎日毎日の授業と遊びを、みんなで一緒に共有の体験として積み重ねてきた育ち盛りの九年間というものは、人々の心の深いところ、手足のさまざまな機能や頭の働きに、しっかり染みたなにか大変大きなものを培ってきているのだと、つくづく思うのです学校の弊害ということが、不登校だとかいじめの問題につながっていろいろと取り沙汰されています。でもそれはあくまで、地域社会の文化の基本型として、営々と位置づけられてきた小学校と中学校、そして今や高等学校も含めて、学校教育というものの存在そのものを否定するほどの論議に高まるような質のものではあり得ないのだと、私は思っています学校は、社会の雛形。子どもが他人とどううまくやっていくかのシミュレーションの場として子どもの成長に必須の存在です。
特に思春期のはじまりを体験して心と体が不安定に動揺し、子どもの殻を脱ぎ捨てて、一人前の大人へと脱皮しかける中学時代。母乳をやりたがらぬよう中学三年間の義務教育は、まさに、人と人とがうまくやっていくことを、実際の人間関係で学びあい、確かめあう、生きたシミュレーションの場なのですねただ、本来の学校というもののそういう存在意義が、今もどれだけちゃんと人々に理解され大切にされているかは、現象的にはちょっとそれが見えにくくなっているようなので、そこが私などのもっとも気になるところです。
学校を単に、上の学校へ進むための学科の点数をしげる場だと見なしてしまう傾向が強すぎるの
ではないでしょうか。小学校は中学への準備中学は高校進学のための、高校は大学、大学は就職のためのものというように。学科の単元だか単位だかを最高点で修得して優秀な進学コースを歩み安定した大企業や中央官庁に入れば、あとは係長、課長、部長と、陽の当たる部署で昇進の道に励むそれが人生?

  • 先生が父兄から非難されるという事件があった。
  • 保育園暮らしに慣
  • 母さんがもっとしっかりしてくれなくては困る

先生のところにはじめて相談に伺ったとき摘

生きるってなんのこと?
ベンキョウということばがカスカスのひからびたイメージになっていて、思春期のなにもかもを新鮮に理解できなくなった子どもらは
学校って、どうして行かなきゃならないわけ?
なんでベンキョウするの?
と、いらだちの声をあげる。
なんだか横ズレを起こしているのですね。
こなれていない社会集団雑多な人間が、社会を構成しています生まれ育った土地の風土や環境家族構成や親の職業。
衣食住のあり方の違いから、生き方·考え方の違いまで。
いろいろ違うのです。
昔、交通や情報の機関がさほど発達·整備されていなかった頃ならば、移動や交流が激しくなくて、生涯、知りあった者同士だけの共同の暮らしが続く。
学校にも家にもいなかった。
早い話が、いちいちことばで確かめあって確認することなど必要のない、おなじみばかりによる、まさに年々歳々日々同じでしたからねでも今は違います。
私個人の体験でいうと、両親のそれぞれの里は、幼い頃の私の印象では結構遠い辺地でしたから夏休みに家族みんなで親の里に帰るのが大旅行だったものです。煙を吐いて、ゴトンと揺れてゆく列車。きらびやかなまでの二段重ねの駅弁。母親がなんのことでか緊急に親元へ行く用ができる。
幼児の私の手を引いての、あわただしい日帰りの一日。夜更け、どしゃ降りの駅前からわが家まで駅前に並んで待機する人力車に大あわてに乗り込み、母の膝の上で揺られて帰った思い出などを、今思い起こすと、いなかの藁屋根、穀物やこやしの匂いと、街の中の狭い商店の二階のわが住居とが、まるで遠く隔たった二つの文化圏の違いのように思えていたのでした。父親の子に対する態度

父親の役目だ。

別の世界。違った暮らひざわら今は、ずいぶんと交通の便が変わってしまい、辺地のいなかと思っていた親の里の周辺も、一面すっかり住宅街です。朝晩のラッシュアワーには通勤客でいっぱいのJRの新快速電車が忙しく往き来していて、みんな同じ地域の同じ人間、といった感じでつながってしまいました。
みんな同じになってしまったようでいて、かは、意外と違うのですねそれぞれが、どこの出身なのか、どんな育ちの人なの雑多な人間がみんな入り混じって暮らしている。例えば、熊本出身と秋田出身の男女が東京の大学時代に知りあって結婚し、生まれた二人の子が小五と中一になる春に、神戸へ転勤するとそれぞれのネイティブ·ランド生まれ育った土地は、父が熊本、母が秋田、子らは東京です。それぞれのことばや気質の違いが、九州、東北、関東、関西では、どこがどう違うとはあまりいえない程度に、どこか違うのですね。神戸の学校で子どもがなにに面食らっているかが、親にわからない。
私のところへ相談に来られて、どうも子どもが学校に行くことが辛いように言うというのです。父親の子に対する態度

父親の子に対する態度

不登校気味になっているのを、よく調べてみれば、そういう背景があって子ども集団になじめないのだった、という例などがありがちなわけです古くからの近隣感覚で育ってきた、地域の子どもというのは、親たちのそっくりそのままの写し絵といったもので、ちょっとしたことばやしぐさや発想が、みんなしっかり同じであってこそ、何気ない仲間。そのうちの誰かがどこか少し違っていれば、たちまちそれだけで異物の存在として大仰に敬遠される「ちょっとわからないので教えてください
と、文字に書けばまさに日本語でなんの違和感もないことばでも、これを神戸あたりのわいわいふざけあって遊んでいる中学1年のガキ連中の中で、はっきり標準語で、みんなにものを問うことばとして発するならどうぞ」


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