育てられて

母親を呼ぶ。

なんですか、といったまともな反応などが返ってくるものではなくて、ヘラヘラと卑屈に笑い、例えば一人がこれを発した子を指して
おい、なンか言うとるでと、みんなにからかい半分の調子で訴える。
まじめに尋ねた子は、そういう反応に面食らってしまいます。
自分はなにか変なことをしたのだろうか、と。
最近テレビの娯楽番組で人気のさんまとかダウンタウンとかの、ああいう笑いの取り方というのが、大受けに受ける受け方は、まるで関酉特有の照れと厚かましさのパターンで、これは例えば新潟だとか鹿児島だとかの生まれ育ちの人には、よほど慣れなければ、なにがなんだかわからないといった地域の臭み丸出しの、いわば関西人のひとりよがりもいいところ、といったものですね話し合ってみると、うーんなるほどわからないでもないな、というようなことでも、それが文句なしに通じあわない限り、まるで異星人扱いする。子どもたち自身の頭手体心を使わせて目に見えない心の壁だらけ。文化のあらゆる発達で、全国の交流がこの何十年来、急速に激しくなり、地域や地方の違いが、何百年何十年の歴史としてしっかり根づいているのに、それらをことごとく無視して、話し合わずにわかるはずだという昔のままの気安さを押し通そうとするのでは、実際にいろいろと支障が生じるのが当たり前というものです。
そういう意味で、今、え込んでいるのです。
地域の義務教育九年間の小学校·中学校は、大変大きな基本的な問題を抱学科の点数で成績をあげることが義務教育の基本なのではない。それこそ、いじめだとか不登校だとか……互いの信頼感や安心感が集団全体として成立し難くなっている。つまりまことにこなれの悪い社会集団の雛形として、子どもたちの通う学校、特に、思春期のはじまりの難しさを引き受ける中学校がある。
学校が集団適応と自己解放のせめぎ合いの訓練の場として、有機的に機能するのかどうか。
教育の本来の役割を、学校が今から背負い直すべきときなのだと私は痛切にそれを思う。

  • 高校のとき
  • 子どもはそのおまけにすぎない。
  • 子どもはそれにこたえようと一生懸命になります。

母が同居し溺愛された。

義務「いじめがひどいとき、緊急措置として学校に登校しないことも認める必要がある」といった最近の文部省の全国の学校への通達などは、あくまで緊急の臨時の対症療法的な対策でしかないのであって、これから、いよいよ中学校が思春期の難しさを背負う義務教育の場として、ほんとうの力を学校側が培わねばならなくなったのだと思うのです。
みんな違っていて当たり前それぞれに違った宗教とことばを持った民族が、国土を取り合う血生臭い戦争地球上のあちこちで今なお解決し難い争いが続いています例えば東欧のボスニア·ヘルツェゴビナ共和国が三五0万人で、クロアチア共和国が四五0万人。
人口でみると、日本でいえば、九州と四国との対立だとか、近畿と中部の衝突といった規模で、宗教やことばや生活の仕方の違いによる対決が続いてきているわけですね。信仰,言語·民族の隔たりは大きいのです。
イスラエルの争いを頂点とするユダヤ教とイスラム教の対立抗争をはじめとして、世界中がまだまだ宗教の違いをもとにした敵対関係でごたごた続き、というところからみると、わが国の平穏さは、まことにありがたい限りというべきなのですね。一億二千万の人口を擁する日本列島は一つの言語で統一され、信仰は自由です。
教育がほしい。
アイヌなど少数民族の問題、方言が生きている現実があるとしても、公用の言語は、東京山の手のことばを標準語として、それひとつが国の内外に十分機能して
いるのですね一家に一台どころか一人に一台といってもよいくらいにテレビが普及している現在、関酉の子どもが国語の時間に音読することばが、見事に標準語のアクセントやイントネーションになっているのを聞いて、私などはこの二、三十年の間に、これほどにも日本国の文化がこなれてひとつのものに均質化してきているのかという、一種の感動がありますただ、そのために、みんな一緒
の感覚が、変に先行してしまうのですね何千年来の宗教もことばも違う異民族が触れあう東欧や中近東、あるいは東南アジアとかアフリカとかでは、互いに違っていて当たり前というのが常識になっているでしょうに、私たちのこの国の常識はみんな同じなのが当たり前になっている。勉強が嫌い

子供のほうです。

日本語による日本式の暮らし向きという単一のスタイルにすべての違いが吸収され、基本的にそこから相互規制がはじまる。
特に思春期の頃の子どもたちは、急速な成長の途上で心も体も不安定なのですから、互いに違っていて当たり前が普通の常識になっていれば、お互いがどれだけ楽で伸び伸びするだろうかと、つくづくそれを思うのです。
みんな同じなのが当たり前どころか、度が過ぎて、同じでなければ許さないになってしまいがちな若者たち同士のせめぎあい。それも、優勢なひとつの群れが、はずれた弱小の者を、からかったりあざ笑ったり、いやがるものを配下に従わせようと無理強いしたりの、いわば人権蹂躪人格無視。勉強が嫌い

勉強が嫌い

じゅうりんはっきりいえば、人間同士、私たちはみんなそれぞれ、同じなところがありすぎてそれが当たり前であると同時に、違ったところがありすぎてそれも当たり前なのでしょう。どちらもそれこそ、当たり前同じところを同じと受け止める。
るかではなしに、どちらもが大切。
違うところを違うと受け止める。
その双方が大牦どちらを取例えば、父親は男で母親は女だから、どっちが好き?と問われればそれぞれいろんな点で違う。
でも、
父さんと母さんとそれぞれどちらも、好きだし嫌いだし
と答えるのが誰もの本音ではないでしょうか私は五人きょうだいの末っ子でした。


子どもたち自身の頭手体心を使わせて 子供の質問にどんな答え方をする 父親は高度経済

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